3/02/2014

査読とか

最近も引き続き、大量の論文査読をやっておりますが、沢山こなすとともになんとなく考えることが変わってきました。

論文の査読を客観的にやれと言われましても、ジャーナルのポリシーが適切でないと査読はできません。どの程度の論文であれば掲載にふさわしいのか、というのは実は大変に難しいです。パラメータを一つ追加して、図版が新しくなればそれでよいのか、混和剤が変わっただけでよいのか、というのはジャーナルポリシーに依存するのでは、と。
オリジナリティをどこをもってオリジナリティとするのか、その評価は実に人それぞれであり、査読者の価値観だけで判断してよいものでもないように思います。が、実際にはジャーナルでは、この程度のレベルを採用としてくれ、というような依頼はなく、結局、どのジャーナルも玉石混合となっており、某米国誌などはその最たるものではないかと思われます。まあ、ページ数が厳密に制限されているので、大きな主張の論文が投稿しにくいというのもあるとは思うのですが。




どのジャーナルも編集者という集団があり、その下に編集者が選ぶReviewerというものがいて、なんとなく、癖というか性格のようなものが生まれます。さらにそれが拡大すると、一種、研究の考え方も含む派閥のようなものができ、それがReviewの公平性を失わせる可能性もあります。業界の筆頭雑誌がこのようなことになって、Nonat先生がもう投稿しないと言明したことは有名な話ですが、多様な考え方で前に進むための議論ができなくなってしまう、というのは大変残念なことです。明らかになっていない現象解明においては、論理性だけが正しければ、立脚する立場・仮説がしっかり説明され、論理性が明快で、それなりに新しい結果があれば、仮説の立場が科学的には明らかにされていなかったとしても論文としての価値はそれなりにあるはずですが、その手前にまで厳密性を求めるというのは、Reviewerの難癖といってもよいでしょう。

現状、多くのことが明らかになっていない状態で、多少不安定な仮説に立脚せざるを得ないのは工学論文であっても科学論文であっても同様でありますが、どの範囲で論文価値を認めるか、というのは著者の努力をもっとも払うべきところであると同時に、査読者が自分の立場と切り離して判断すべき重要なポイントとなっています。
時に、非常に先進的論文が却下されるのは、査読者の勉強不足が理由であったり、先の自分の価値観を優先させる自己都合による場合が多いですが、この点は厳に慎まなくてはいけません。

なによりも論文査読の時に重要なのは、その論文がパブリッシュされて、その分野の知見が拡大するか、新しい議論が生まれるか、その論文に触発される論文が出てくるか、という非常に進歩的な将来からの評価ではないかと思われます。その論文に立ち会う謙虚さが自分にあったか、と最近、反省するような事例に立ち会ったので、このような文章を書いているわけです。


データとしてのみでもパブリッシュする価値のある論文というものがありますが、一方で、それに対する考察が適切でなかったりして、結果としてデータの価値を十分に説明できていない論文は、オリジナリティ/価値を明瞭にできていないという意味で、論文にはなれないこともままあります。査読者の観点に立てば、どういう範囲でどれだけの価値があるか、という点での主張がもっともくつがえしにくい形の主張ではないかと思います。これを書いておけば、論文において否定される理由は、ジャーナルの掲載ポリシー次第になってしまうからです。
論文書くための作業のみならず、データを取る時から論文を構想しておかないと、大変な経済的、時間的損失を蒙りますから、この辺りはじっくり取り組むべき課題だと思います。


大分寛容になったとは思いますが、以下の論文は、それでも自分にとっては苦手な論文です。

1.過去の研究で重要な知見,特に初出に注意していない論文
2.明らかに自分の研究範囲を超えた結論になっている論文
3.思い込みですすんじゃって,やったら論理が飛んでいる論文
4.結論に新規性がなくて,レポートになっちゃっている論文

1.、4.、が生まれる要因は明らかに勉強不足です。既往の研究を学ばずになんとなくて研究をされている方も残念ながらかなりの数いらっしゃいます。企業の研究所であれば、特許くらいは先にみるんじゃないかと思いますが、先行研究を調べず国のお金で研究をやる、というのは個人的には言語道断だと思います。新しい価値にもいろいろあるとは思いますので、法律や指針類のためにデータをとるのであれば良いですが、科学的っぽいアプローチで先行研究の引用が十分でないと、それだけで査読をするモチベーションが下がります。基本的にはそこで却下としたいです。納得されない方もいるので、その後も読んで却下用の文章をつくりますけれども。

2.、3.は思い込みから研究をスタートして、少ないデータから自分の思っていることを普遍的に証明したいという野心から生まれています。私の論文もこうなっているように見られているかもしれませんが、それでも、各ステップにおいて、どの程度の正確度で議論できていて、それがどの範囲に通用する議論なのか、というのが各段階で明示されている論文というのは非常に好感度が高いし、私が好きな態度です。

データをどの範囲で切り出すか、という問題ともつながるのですが、どのレンジで着目しているかを明示しないと、やはり、そこには(言明しないという)嘘がまじりこみます。こういったものは、後日トレースされてしまうと白日のもとにさらされて恥ずかしいことになりがちです。


まあ、なんだか、いろいろ書いて見ましたが、ようは最近査読の立場がようやっとわかってきたというか、寛大になったというか、そういう話です。

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