2月末までにはなかなかいろいろ立て込んではおりますが,そうはいっても家庭は家庭でほっておくわけにもいかなく,また,子供の成長は確実に親が手をかけただけ成長することは間違いがないので,昨日は切り替えて休日を過ごしました。
休暇のことを書こうかと思いましたが,ふと考えたことがあるので,話を変えます。
卒論,修論がおわりました。この時期,自分の教育・研究を振り返る時期でもあります。報告書はまだだけれども。
私の関連する学生を見ていると,手をかけただけ,ディスカッションをしただけ,学生は独り立ちし,信頼できるように成長します。
信頼とは別に研究面だけでなくて,どんなことでも意見を聞いてみたい一人の個人,という意味です。
毎年,異なる個人が入ってくるので,それ相応の距離感を見ながら接するわけですが,この踏み込み方というのは大変に難しいものです。研究を種に好奇心・向学心と達成感・楽しさのバランスをみてテーマをかえたり,いろんな学生の研究を手伝わせたりするわけです。
今,体罰の問題が話題になっていますが,これは踏み込み方の一例だと私は考えています。私は体罰はしませんが,非常に厳しく接することはあります。厳しいというのは,最初は手加減しながらやっていた実験・解析に対して,研究者としてあるべき姿で望むという意味です。そこには一切の妥協はありません。
この妥協の無い状態に比較的早い時期にスムースに入れた学生は大変素晴らしく成長します。正直いえば,この状態に入るためにああでもない,こうでもないというのが私のもっとも教育面での大きな考え事です。
私は,この一種のフロー状態に学生が入れることを目的に教育・研究プロセスを構築しているわけですが,ここにもっていくためにはある程度の負荷とそれを乗り越える体験というのが必要だと考えています。
その乗り越える過程で,かなり,適切なタイミングでの教育が必要で,ここにおいて時間を教員がどれだけ割いているかというのが重要ではないかと考えています。今年の卒論生は,スロースタートだったので10割とは言えませんが,今後の成長を期待できる学生になったという点でよかったんじゃないかと考えています。なんにしても,特に初期の段階で教員が学生にどれだけ時間を割いているか(直接・間接問わず)というのは,大学院教育・研究教育において重要な点ではないかと考えています。
たぶん,昔の,背中を見て学べ系のものであっても,間接的には学生のその場を見せていたわけで,その時間がやはり多いかどうかが重要だったのではないかと推察します。
一方で,この状態にスムースに移行しない学生も間違いなくいます。こじれる場合もありますし,私の憶測の範囲ですが,この状態に入れなかった学生は数名います。残念ながら,研究に向き合わない状態になってしまっては,この構築はできません。
大学院教育,あるいは高等教育は本人の意思・向上心が前提になるので,その条件がみたされなかったのではないかと自己弁護していますが,ではどうすればよかったのか,というとなかなか難しい問題です。
すでに成人している大人に対して,体罰でこれに処したとして,あらたな信頼関係の構築は難しいように思います。体罰を起因として,研究テーマや教員に向き合えるかというとそれはないでしょう。もし,本人に学ぶ・研究する意思があるのであれば,そうできない何らかの理由があると考えるのが自然です。原因解決にならないのですから,高等教育において体罰は不必要だと私は思います。
逆にいいますと,体罰が必要かなと思うほどに研究にも教員にも向き合っていないということは,これは組み合わせが悪かったと考えた方が良いのかもしれません。今であれば私は,指導教員変更を本気で推薦すると思います。
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