あまりに会議が多いので現実逃避。
最近,あまり一般書をよめていなくて,電車でも論文ばかり読んでいました。が,唯一,かばんに入っていたのは,「談合の経済学」という本でした。
談合という言葉は,今でこそ,悪のイメージがついてしまいましたが,実際の業界にいる人は談合をよしとする人もあしとする人もいます。
私がこの本を最初に手に取ったのは,大学4年の時でそのときはつまらなくて,そのまま本棚域でしたが,ふと本棚を整理したらでてきたのでかばんの中にいれていたのでした。
2000年ちょっと前の時というのはバブル後から,ITバブルにいたる最中で,構造不況といいつつもそんなに厳しい感じはしませんでしたが,建築産業がどうなるかということを考えたいとおもって日経新聞や日経系の雑誌を読んだりしていました。
当時の論調は,建築業界は過当競争がすすんでおり,ダンピングが多く発生している。いずれ会社は淘汰されて,ゼネコンの数は少なくなり,適正社会に移行するはずである,というものでした。
この論調はいまでもダイヤモンドなどの記事にも時々記載されるものです。
しかし,この本をよんでみるとわかりますが,ダンピングや原価割れ受注というのは明治時代からあり,責任を果たすつもりがない業者がいて,安値で受注して,できなくてとんずら,っていうのがよくあることがわかります。
最近の政府系の研究開発案件で,どことはいいませんが,ゼネコンが安値で受注してくそみたいなレポートを出すのが散見されますが,それとまったく同じ構図ですね。
これには,発注者側が仕様をつくれない,仕様に対する対価が見積もれない,評価制度が無い,発注者側も受注者側も責任を取る制度が無い,ということが原因と思われますが,その構図をいまもってひきずっているわけです。
また,結果からみると,確かに随意契約できないことによって,残念ながら実力の無い企業に発注せざるを得ないというような,いったい何が目的の法律だかなんだかがわからない状態になってしまっているのが実態のようです。
目的を失った法律の問題,というのはこれまた,おもしろいトピックですが,いずれコメントをあらためてしたいと思います。
明治の初頭,政府の方が業界を牽引していたときは,仕様も対価も見つもれたわけですが,技術者がマネジャーになれない国になってから,こういった制度の破綻が生じているわけです。政府がわるいというよりは,こういった問題点をふたをして,まったくシンポの無い国民全体の問題だと思いますが,この調子でいくと建築業界の適正社会なんていうものはこなそうです。
じゃあ,どんなシナリオがありうるか,というと多分,人口の推移とともになるだけで,ゾンビみたいな企業が引き続き存在するんじゃないかと。でいずれ,中国資本なりインド資本なりの会社が乗り込んできて技術吸収,売却・解体,ってかんじじゃないでしょうか。
先日,世界一周をしたときに,日本の重工と取引のあるドイツ系スイス人の人がとなりにすわって,話をしました。スイスのメーカーの価格決定においての原則はAs high as possible,だといっていました。いかにして高くても買ってもらえる製品をつくれるか,というのが技術開発と営業・マーケティングの問題である,と。
日本の重工系は,材料高騰を価格に転嫁できない。理由はよくわからないそうですが,かれら(日本人)は常にAs low as possibleの議論をしていて,何が目的になっているのかがまったくわからない,おまえわかるか,と質問されました。
追いつき追い越せ,の時,国全体を豊かにするときには薄利多売が国是であり,重要だったかもしれませんが,たしかに,今,ものを売るためにはAs high as possibleが大事なように思います。
そういったものの考え方でないとブランド力,末永い信頼と技術力というのは醸成できないのかもしれません。
建築業界もそういった切り口を目指すのがよいのかもしれませんね。
0 件のコメント:
コメントを投稿