4/02/2011

震災

文書中,不適切な表現があるかもしれませんが,私の考えたこと,ということで記載しました。閲覧した皆さんにとって心地よい文章にはなっていないかと思いますが,一個人的意見として扱ってもらえれば幸いです。

震災から3週間くらい過ぎた。地震による被害,津波による被害,原子力発電所の被災による二次被害など,おわったもの,継続したものがある。原子力発電所の状態については,さまざまな情報がいまだ整理されていない状態にあるし,地震・津波の被害状況についての詳細調査は,今後,各学会等が現地入りすることで明らかになっていくのではないか,と思う。

そんな中で私が考えたこと。

1)復興について
震災後の復興は,生活をまったく元に戻すことではない,ということはなんとなく思惑を共有している部分があるように思う。少し言いにくいけど,たとえば自分の身の回りで考えれば,大学の数だって,人口分布にもはやそわなくなっているわけで,全部を元に戻すということは,今後の時代を考えればミスマッチだろう。合併などの話が提案されてもおかしくない。損切りを伴って復興を行うのであれば,調整に要する時間も要することから,一次案については,早い段階で示す必要があるが,政府・関係機関にそれを準備している/していた,という話は聞かない。
しかし,東北が生まれ変わるためには,過去のしがらみ・利権にとらわれない立場で,将来を見通したグランドプランが必要だと思う。

日本の政治は,あるいは日本は,捨てることによって生きるということを,戦後の成長期の期間やってこなかった。バブル後の対策でも,心理的な要素が強く,損切りをすることができなくて,債権処理がごてごてにまわり,見えない形で日本の税金や国債の形で割り振られた。

温情主義と復興支援は切り離す必要があると思うけれども,そういった意志決定をしてきたことのない日本でそれをすすめることが果たしてできるのか,というところで若手の生きる意志のようなものが問われているのかな,と思う。

ビジョン,グランドプランが必要,ということは私もしょっちゅういっているが,これだけ大きなものを一人で描くというのは,情報整理の観点からも難しいと思う。しかし,この局面で日本が苦手としているこのことを改めて問われているのであるから,情報集約方法,意志決定も含めてやってみる必要がある。たとえば,各大学などがコンサルタント方式で技術提案のように,今後の復興計画を提案してもよい。
今の日本の大学で,それだけの即効的なプログラム作成能力があるかは,期待薄ではあるけれども,一つの官僚集団だけでなく,いくつかの独立の集団から提案させて,良い物を評価すればよいかな,と思う。

2)建築物について
勉強として,富士宮の震災調査に同席させてもらったが,これはもう,建築耐震技術の成果であるとしか言いようがない状況がそこにあった。震度6強であって,あの程度の被害状況であるのであれば,もはや,地震の問題は,建物の設計・施工技術の問題にはならなくなりつつある。一部,ちょっとしたトラブルが見られるのは,やはり新しい造成地とか,地盤が緩い部分であって,その部分は,集中的に被害が見られる。これは,まわりの地盤から考えれば,地盤・土地の観点から,建物を建てるべきに注意すべきところとそうでないところがある,という判断になるのではないか,と思う。
たてられないところ,というのは無いけれども,その場所に適した構法なり,やり方が出てくるわけだ。

液状化とか,地震・洪水などについてはハザードマップが閲覧できる場合も多いし,過去の土地利用図をみて,過去に自分の購入しようとしている土地がどんな土地であったかもわかるわけで,家を建てるときにその程度の調査はすべきだ,ということなんだと思う。
原子力についての知識について,国民中が知る事になったわけだけれども,今後,浦安の事情なども含めて,マスメディアで何回か紹介するようなポジションを建築学会などが示せればよいのではないか,と思う。

最近,木造利用普及の観点から,伊勢湾台風以後の,建築学会の木造禁止(防火、耐風水害が想定される場所での木造住宅の建設を慎むべきという提案 以下参照http://www.aij.or.jp/jpn/databox/2010/20100726-1.htm)が,別の意図から避難を受けたりしていたが,今回の津波映像などでもRC構造物が圧倒的に安全であることは示されたように思う。本当にコストの問題は残るけれども,私もRCの住宅に住みたい。

今後は,既存不適格をどのように,やはり構造上,行政上,防災上考えていくか,というのが問題として残る。これは,防災の人がいってきた通りのことだ。東海地方は,東北地方のように震災をあまり受けていないので,既存不適格構造物が相対的に多い。この点,議論すべきところだろう。

3)電力について
50Hzと60Hzについては,変換器を増設するか,統一するかしないと危機管理の問題として正しくない。今回,あらためて問題が浮き彫りになったわけで。
原子力発電所は,地震国にはつくらせないという国際世論があるということが報道されていたが,おそらく,科学立国を標榜する国は,そうならないだろう。
逆に言うと,それで原子力政策が止まる・止められてしまう国というのは,科学の力が信用されていない,ということでしょう。研究者,あるいは研究を伝達する人に問題があるということなる。
日本がどういう方向性を進んでいくのかは,国民がどの程度の電力をつかって,どういった生活を享受したいか,ということで判断すべきだろう。
原子力発電所が無くても,生活に問題は無い,というような見出しで文章を書かれている大学教員もいるが,今から,30年前の生活に戻るのが国民の意思なのであれば,それはしょうがないかな,と思う。
私としては,エネルギーを消費してでも,新しいものを開発・研究していく活力ある生活の方が好きなんだが。

4)感情論と復興のこわさ
復興にしても,原子力政策にしても,浪花節の感情論で決定する(今の政治には多分にそういう要素が多い。)のは,本当に恐ろしいのだ,ということを国民にも理解してもらう必要がある。
科学政策への投資削減,防災への投資削減を積極的に現政権が推し進めた点が直接的に今回の震災を拡大させたというわけではないが,長期的にこうしたものごとにどうやって対応するかということを考えていなかったということは,一部露呈したのだと考えられる。
政治の側にいる人は感情論でなくて,復興ビジョンと併せて考えてほしい点が多々ある。たとえば,今回の震災で,日本の工場に部品を発注する・依存することがリスクだと認識されたので,多くの切り替えが発生するだろう。この影響による失業量も長期的に相当量発生するだろうし,中小工場は,離れた点で2工場経営するとか,工場に地震対策がどの程度されているか,ということが発注の契約書に謳われるようになるだろう。
これは,それだけでも相当のリスク負担で,今後,日本が考えていくべきことの一つ。
長期的に中小工場の仕事がアジアに振り分けられる可能性があるわけだが,ニッチな技術をどれだけ保つかというだけでなく,それを営業する上でも地震対策によるコスト上昇が日本企業に求められることになる。この冗長性のためのコスト負担は,地震を前提とした日本国の上で考える場合,どういう整理をするか,当然損切りしないと整理しきれないので,そこについては,是非とも明示的に議論をする必要があるかと。

5)報道
今回,日本の報道は,不安をあおっておもしろがっていただけのようだった。神妙な顔をしても,悲惨な映像を出すことが使命とでも思っているかのように繰り返し報道するだけだった。
放射能の拡散問題については,定量的データ,判断に必要なデータや参照すべきものの情報を出した民放は無かった。
報道はエンターテイメント化して久しいが,まさか,この非常事態において放送局が全力を注いでこの程度のデータも取ってこれないとは思わなかった。
この非常事態で報道が何のためにあるのかを考える人は,報道側に誰もいなかったのではないか。
結局,被災した人のローカルな情報を伝達することもかなわず,放射能の拡散を懸念する人に判断するデータも示さなかった。国は電波を管理しているので,非常事態における報道についても,国が検討する必要があるように思う。

3月の頭に子供が生まれて,妻子はまだ,川崎にいるので放射能の拡散問題などについては,結構情報を収集した。たぶん政府の情報発表は,その段階で憶測を生まないようにした最低限のものが発表されていて,政府としては正しかったんだろうと思う。
ただ,ある程度,データを読み解くことのできる人にとって,(そしてそういう人は政府批判に走りがち),情報は十分ではなかった。
チェルノブイリのレポートも公開されている文献は読んだし,医学的な統計データの整理が難しいこともよくわかったし,風や降雨の影響について理解もできた。
また,どういうわけか,アメリカなり,フランスやオーストリアなどが,懸念材料が出たときにタイムリーにレポートを公開していて,信頼性についてどうすべきかの議論はありつつも,可能性を検討する上では,非常に理解には役にたった。
しかし,日本のこういったレポートというのは,あまりウェブには公開されていなかった。
降雨の関係で,多摩水系にも放射能が集約する可能性があるといって,子供用に水を購入した方が良いということを報道前にアドバイスできたのは良かった。こんな小さなことでも,乳児をもった親については,非常に大事な事のように思う。
でも,翌日,すぐに水に値が千葉の方で変化したことが報道されていたので,この点,国は注意するように配慮していたと思う。むしろ,こういう配慮をしていた点を報道は全面に出した方が良いし,さまざまな可能性を国民自身が考えるように促すとよいのではないか,と思う。
この辺,非常に難しいが,仮説や前提と結果というもののセットで情報を国民に出せるよう,教育や報道についても配慮する必要があるのではないかと思う。

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