2/13/2011

査読

英語論文1件,AIJ1件,JCI4件の査読が終わった。少し雑だったけど,ポイントはついたかなと思っている。

自分の研究でも,修士論文での発表会でも,思うことだが,やはり率直に厳しい意見を言うこと,言われるということは大事だ。なんどもここにも書いているけれども。
言われたことに対してちゃんと考えて,持論の前提条件,理論展開とその範囲,今後の課題,不明瞭な点を明らかにして,次に進もうということが大事だと思う。しかも,それを人に伝えて,わかり合える部分とそうでない部分,というのをクリアにしていくというのは,信頼を獲得する上でも重要ではないかと思う。

なんだか,遠慮されちゃって厳しいことをいわれない,という状態になったら,本当に悲しいことだと思う。

特に学生がそうで,所属研究室の先生に遠慮して,誰もなにもいわないけど,もはや腫れ物にさわるような痛々しい研究になっていて,本当にこんなんで研究教育なんだろうか,っていうようなものもある。得てして,所属する研究コミュニティ事態が小さく,批判能力が中で造られず,なんとなく難しい言葉ときれいなグラフィックでそれっぽい,という状態で閉じているところっていうのは,案外いろいろあるんじゃないだろうか。建築材料もコンクリートについては,外に開かれている。他の部分はどうだろうか?

学生は学生で楽に,波乱なしで卒業したいとおもっているんだろうが,学生の時にそういった,「ちゃんとした」コミュニケーションを学ばないと,本当にあとで孤立しちゃうんじゃないか,といらぬ親心みたいなものが出てしまう。

見込みのある学生については,後で,それとなく呼び出してこういう考え方もあるんだよ,とかいってアドバイスするけど,下手をすると,研究室の先生を批判するような形になってしまうこともあるので,このあたりは難しい。

大学の先生も50を過ぎると柔軟性があるように振る舞っていても,そうではないし,若造には言われたくないっていうのもあるだろうしなあ。(私だって,そうなってしまうような気もする。少なくとも50まではやれたという自信もあるだろうし。)

そもそも,表面は温和でも,めちゃくちゃ虚栄心が強いとか,負けず嫌いというのがあるもんだから,指摘しにくいしな。酒を飲むと,ものすごく,そういったことを恨んでいることがよくわかったし・・・。
プロセス上,教授同士でそういったことをちゃんとやるのがFDかなあ。日本のクローズドなコミュニティを考えると,難しいところがある。

でも,今の社会ってこういうのの積み重ねで閉塞感あるんだろうな。嫌われ役を誰かがやって,動かさないといけない。
やっぱ,やるしかないかな。

(ちなみに,研究者にとって虚栄心とか,負けず嫌いというのは,大事な素質だとは思う。人にほめられたいという要求は誰にでもあるし。欲求が強いとそれだけ,努力もできるわけだし。)

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