http://concrete-nagoya.blogspot.jp/2012/03/blog-post_6200.html
これのつづき。
このエントリーの続きで,結局,規制・推進の枠組みから抜け出せないのは,第3者による評価ができないから,ということ結論づけられる。
推進こそ規制が必要で,規制が推進の存在を前提としているのであるから,原子力の関係者自体にこの膠着状態をひもとくことはできない。
アメリカのように科学アカデミーが存在して,それを承認プロセスは一つの解法と考えられる。
しかし,日本の権威を有する団体が,今から始めて自己批判をも行いながら厳正に中立な立場を獲得できるかはよくわからない。そういう公正な立場を獲得することの重要性と,それを支援する民意も必要であるし,純粋に科学的である人に対して,適切にポジションが与えられるかも見通しがたたない。ないとは思わないけど,それが評価軸になっているようには思えない。
日本の複雑な問題の源は,問題を適切に処理できない人に権力と仕事とお金がいっているという点にある。全部が全部そうだとは思わないが,そういう人がいて問題を作り出していると思う。
問題をさらに複雑にしているのは,処理できない人が世間体を気にして,解決したように見せかけることに全力を費やして,数年たって,結局何も前進していないという状態がつくられるという点だろう。お金をまわした人,権力醸成に貢献した人,についても世間体が同様にあって,それに関わった人間は成果の失敗を全部隠蔽する動機が生ずる。
また,これが可能となっているのは,責任者が不在だからだ。たぶん,失敗を恐れるあまり,お金を出す側もそうでない側も責任ということについてあまり考えずに進めてそうなっているんではないだろうと思われる。
こういうの,大学からかわっていかなきゃ,ダメだと思う。
一つは,経済的な独立というのが重要かも。大学の研究資金が政府依存になる限り,こうした体制はあまり変わりようが無い。
政府の税金制御に介入しすぎる点は,効率的な部分もあるのだろうけども,科学の個の独立を阻害し,長期的には健全なアカデミーの醸成には貢献しないかもしれない。
(以下,思いつくまま,駄文)
あんまり関係ないかもしれませんが,研究のディスカッションをしているのに,まるで人格を否定されたようになって,根にもったり,いきなり個人攻撃になるのはやめてほしいです。偉い人にもそういう人がいて,困惑します。
研究の成果を出すためには,むしろ厳しい意見の方が前進があるかもしれないじゃないですか。研究のコメントって,あればあるだけ自分の得だとおもうのですが。
また,研究の信頼性と個人の信頼関係は別のはずと思います。
それと,研究やプロジェクトには失敗はあたりまえなので,失敗を成果にカウントしないというのも研究評価としてはやめてほしいところです。失敗の理由が稚拙(過去の文献を読んでいない,論理的な展開をしていない,個人の思い込みですすめて周りの意見を聞いていない)なら,プロジェクトリーダーとしては失敗で,そういうのが繰り返されるのなら,やめさせた方がよいでしょうけど,ちゃんとやっていても失敗することは失敗するので。
特に,最近のプロジェクトは期間がものすごく短かったり,予算の使い方が不自由だったりするので,プロジェクトの発注側にも失敗要因をつくっているものはあります。研究開発って,業務発注のように進められる部分とそうでない部分がありますし。
失敗の評価を適切にして,それがあきらかに発注側の要求によるものであるなら,それはそれで報告書に記載して,いずれはもっとプロジェクト発注とか成果を出すためにはどうすればよいかという根源的な課題として,取り入れてもらって改善されればよいと思います。
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