6/15/2013

グローバル人材

FBの方に書いたのですが、見回してみると違和感を感じている人は思ったより多く、これなら、いずれは大丈夫かな、とも思いますが私の所属している大学は、少し横道にいってしまうかもしれないなあと。

まず、グローバル人材というものの定義をしっかりしましょう。名前はなんとなく、ほんわかついていますが、何が目的なんでしょうか。あるいは何が出来る人がグローバル人材なんでしょうか。
英語ができる人なら、バイリンガルで十分ですよね。

国際的に活躍するにしても、日本企業でない企業で活躍できる人でしょうか。日本のために、日本企業を海外で活躍させることができる人でしょうか、それとも海外で新しく起業できる人でしょうか。
最近の文部科学省の方向性は、安倍首相のとりまきが経団連でることもあるからかもしれませんが、大学においてもなんだか、職業訓練所になってくださいというような要望が多くて愕然とします。





文部科学省も、全国のいろんなレベルの大学に一斉に声をかけるんじゃなくて、もう少しいろんなレベルの大学について方向性をもって、行き先決めていくというようなことをしてくれるとよいんですが。うちの執行部も方向性がよくわかりませんが、少なくとも旧帝大は学問の場でもあるという立ち位置は、向こう100年のことを考えれは崩してはいけないのでは、とおもいます。

学生の立場からみると、世の中にはグローバル人材というものはほとんど(ある種の大学であればまったく)存在しないわけです。良の中にロールモデルがなければ、どんなことをやって、何をやって、その上でどのような生活がまっているかわからないわけですから、グローバル人材とやらになりたいと思わない、あるいは自分はなれない、と思ってもしょうがないように思います。
グローバル人材「自分は無理」…高校・大学生の半数超

なにしろ、教える側も親も大半はグローバル人材ではありませんから、定義をしっかりしましょうよ、ということです。

さて、まあ、これからは想像になるわけですが、グローバル人材を日本企業以外の企業で働らく能力をもっていること、としてみましょう。そうすると、これは、教える側からするとかなり迷いが生じます。なにしろ、欧米の企業では、同一労働について均一な賃金が保障されており、そのかわりに労働環境の流動性が高い状態が維持されます。首切りも再雇用も比較的自由です。そのかわり、ある種のスキルを積み重ねるとか、自分でキャリアをつんでいくことが必要となります。こういったことについて、大学でその基礎を教えることは、実は工学系では特に得意なところでもあるんじゃないかと思います。社会人の再教育なんかも、自然と需要が増えるわけで、なんだか文部科学省は日本の労働・雇用関係をムシシして欧米系の大学をモデルとしたことをずっと提唱してきていることがわかります。
一方で、(詳細は橘玲著・日本人というリスクがわかりやすく、耳学問ですから、全部が正しいとは思えませんが、平均的な挙動としては正しいように思うので記載します。)、日本は同一労働であっても賃金は正規職員と非常勤で大きくことなり、出世として与えられる職種も実力と関係なく与えられることが多いようです。すくなくとも、生涯雇用という制度の中で自分のプレゼンスを構築しようとすると、自分がいなくなると困るという状況をつくるとともに、社内政治運用について熟達することが自分の雇用を保障することになるわけです。特にスキルとか、できることを増やすよりは、効率を下げてでも自分の役割を創りだして、そこで自分の社内権力を実行するというシステム構築が重要になるわけです。そういう意味で、日本の社内稟議が遅く、外国企業と伍することができない、というのは自然の成り行きのように思います。
両者を比較した時に、自由競争的には前者の方が良いようにも思いますが、日本では前者を希望したとしても、ローカルには、あるいは自分の労働環境的には特に正規雇用の職をもった方は後者を希望するのが普通です。
というわけで、学生のうちにどちらを選ぶか、という選択は現在のところ、日本の労働環境を捨てるかどうか、ということになりそうです。何しろ、日本の企業の多くが、後者であるんですから、グローバル(欧米の)労働環境に備えた教育というのは、日本の雇用環境にはまったくそぐわないのです。

この流れで、日本企業を海外で活躍される、ということは、そのやり方は様々にあるように思いますが、日本社会をそのままもっていったら、スピード的にも人材的にもついていけないことが多いのではないかと思います。少なくとも、(私の知っている範囲でですが、)日本の大企業は、人材を事細かに評価して、最適配置を実施して、生産性を向上させようというようなことができる人事部をもっていません。日本のやり方が通用しない、ということは海外事業を抱えている企業であれば当然知っていることでしょうから、別会社のように運営することになりましょう。そう考えれば、やはり、日本企業・海外枠というのは、日本と人事交流のある形にはならないのではないかと思われます。すなわち、日本で住みながら、ということにはならないのではないかと思います。

起業も含めて、という文脈ですが、大企業になるようなベンチャーを想像すると、これはもう天才にかかっているので、教育の問題というよりは文化論です。日本のように、そもそも適材適所で、優秀な人材にコミュニティをひっぱってもらおうという考えが無く、どちらかというと無能であっても年齢が上だからというだけで、リーダーを立てなくてはいけない文化では、能ある若手はじゃまでしかないでしょうから、そもそも天才を育む文化が無い、ということになります。自分の子供に才能を感じたら、日本で育てないことが一番大事なような気がします。(それが本人の幸せか、というとこれ亦難しいので、私はそういう選択をしないと思いますが。)
じゃあ、もう少し小さいスケールで、ということになると、これはイメージしやすいのは華僑でしょうか。彼らもグローバル(というよりは、ある国で、独自ルールで)活躍しているということになるんでしょうか。でも、生活力はあります。どうにかして生きていく、というような。

日本にこういった点が足りないというのはそうかもしれません。戦後の高度成長期に画一化された教育自体を解体し、さまざまな生き方を小学校から見せて、サラリーマンではない生き方を標準として、そのための基礎力を養っていこうというのは非常に野心的であり、好感が持てます。ただ、ここに高等教育が入り込む余地があるか、と考えると難しいとおもいます。
これは、大人を含めて、さまざまなロールモデルを小学生のときからみてもらって、働くということの多様性、あるいは社会とのかかわり合いを知るところから始まるわけですが、高等教育というのはその多様性において、知的生産性を高める部分で助力ができるかな、という程度ではないかと。

いずれにせよ、教育というのは誰かにこれをつめこんだから、活躍しているというような無責任なものではありません。教育の成果を活かす、社会の枠組み、法制度、文化の醸成が必要であり、3世代は必要なしろものです。教育というのは時間がかかり、そして壊れるのは早いのです。

グローバル人材育成プロセスで、大学がどうかかわるか、という点では今後の日本にとって多様性を育みにあたり、まずは、文部科学省をはじめ国はどういったことをしていかなくてはいけないか、という教育の具体性を提案することではないかと思います。
どうも、最近の政策は短絡的ですが、そろそろ100年の計も同時に話題にしていただきたいと思うところです。

一番の希望は、年長者とかではなくて、今後を一番考えている世代にももっと意見を聞いてほしいということです。



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