環境学には,人間側の意図が入るという意味で,学問に哲学が入り交じってしまう,ということを先のエントリーで記載した。
これを別な話でたとえよう。
医学では,さまざまな知見から,体温や血圧をインデックスを健康状態のバロメーターとして取り扱う。あきらかな高温の時には,とりあえず解熱するし,便をみたり,あるいは心音,その他の雑音を聞いたり,あるいはMRIやX線,胃カメラなどで内部の観察に入り,原因究明を行い,理論がある場合には薬で治し,そうでない場合は経験的によい方法という類型化されたデータから対応を行う。
現在の環境学の難しさは,医学でいえば,すなわち,微熱が出ています,ちょっと咳が出ています,というときに劇薬を使うか,暖かくして寝てくださいというか,放っておいて様子を見ましょうというのをどうするか,という問題に相当しているからである。つまり,将来に対する予測が不確定で,システムとしてどうすればよいかは決まっていないのである。
人類史では,未だかつて自然,あるいは地球全体が完全に病気になったことはない。現在,しきりにいわれているのはCO2濃度あるいは温度の変化であるが,これが風邪と相関するインデックスであるとの合意がIPCC等を中心にしてやっとできはじめたところであるが,これはあくまでも合意である。過去にこれが一大事な病気のバロメータになるということは,科学的に検証されていないあ。
一方で,地球史上においてもっとも急激に温度変化が生じていること自体は事実である。このときに将来起こりうる劇的な病気に未然に対応すべきだ,というのは科学的根拠とそれを解釈する哲学,あるいは宗教に類する信念のようなものが必要である。
環境問題の難しさは,病気がクリティカルであるかもしれない危険性と,こうしたクリティカルになる科学的根拠が示すシミュレーションと現状のデータがそれなりのよい一致を示しているという事実に対して,全員がこのような哲学あるいは宗教を共有できるか,という点にある。
もちろん,共有したとしても,その次のアクションで,南北問題をはじめとした情報・経済格差がさらに問題を複雑にする。
また,これは地震防災とも共通するものがある。もうすぐ死ぬから耐震補強をしない,といいはるお年寄りに対して我々はなすすべがない。たとえ火災が生じて周囲に迷惑が生じる蓋然性が高いからといっても,我々の世代はハッピーだからよいでしょうといわれたときに,それを論破する概念が無い。これは,いわゆるコモンズという共有場の価値形成の話に相当する。
年金の世代間ギャップ,南北問題,貧困問題を含め,従来価値観による社会制度で破綻している点については,われわれは新しい価値や規範を作る必要がある。
こういった点を哲学史や宗教史などで議論することは,環境学だけでなく,新しい世代を中心に是非とも必要なことである。
0 件のコメント:
コメントを投稿