環境問題の中心には、シミュレーションがあるのは皆さんご存じの通り。
しかし、面白いのは政策決定においてシミュレーション結果が大きく取り上げられる点。地球の歴史、というか時間の流れは押し戻すことができないので、現状のベストの技術を組み合わせ、シナリオ設定のもとに、ありうる将来を想定して現状の方向について合意を得るという状況は、科学技術のプレゼンスとして最高の場であろう。
そういった意味で、政治と科学技術が密着しているのなかで、科学技術のあり方自体の変化している。大きなことは、結果を理解するために、難解なものであっても、できる限りの説明責任があるということ。逆にいえば、環境問題を考える上で、市民自身が原著にあたり、政治を考えるように科学を考えなくてはいけない時代が到来したということだろう。
先日のCOP15でも、後進国側から、多くのNPOの発言が出たが、いくつかの発言には環境問題自体の本質をつかめきれていなかったものもあり、特徴的であった。
環境問題を議論するための、データ、手法自体が先進国から出るので、対立する後進国がそれをキャッチアップできておらず、対等に話すこともかなわないというのは、帝国主義とか、あるいはグローバリゼーションによる搾取といったものと構図は非常に近い。
ちょっと話はずれたが、コンクリート業界であっても、それに近いことは結構ある。つまり、多くの人がトレースできないシミュレーションの結果に基づき、指針類を作って、よいものをつくるための配慮をするという事態は、そのシミュレーションの作成者や結果を信任するという行為があり、それは極めて政治的である。
指針類によって利権行為が生じれば、それは、また、いくつか議論を生じさせることになるかもしれない。
高度な実験でも同様である。
説明、っていうのは民主的な進歩において非常に大事なことだ、と再認識する次第。
0 件のコメント:
コメントを投稿