2/25/2010

大学

先週のダイヤモンドの特集は,サムソンの経営戦略に関する特集だったが,その裏で大学の研究・教育ランキングというのをやっていた。よく見るとまあ,COEと教育GPという文部科学省の大型競争的資金の獲得ランキングと,教員数,あるいは生徒数による単価計算だったので,それがどうなのかというのは,一般的な読者にはわかりにくかったろう。

特に教育について議論されているのは最近の確認で,昔は特許とか就職先とかそういうものが議論されていることが多かったように思うが,ちょっと変わってきている。

奇しくも,
「学生への「職業指導」、大学・短大に義務化へ 文科省」
というような話もあって,大学教育とは何か,というのがトピックになっているように思う。

今後の世界を考える上で重要なのは,
情報を仕入れ,加工して,判断して,自分の能力・技術・人脈・資本などを売り込んで,食べていくことなわけで,それらを分業制にするか自分自身で全部をやるかは,それぞれですが,そういう根本に必要な「原理的に考える力」を教えるのが大学なり,大学なんじゃないかと私は考えている。

多少,トピックがある事例になったとしても,建築をやったから,ずっと生涯建築の閉じた知識で生きていくことなんてありえない。境界領域や未知領域もとりこんで,どれだけニーズを掘り起こしていくかとか,産業をつくっていくか,とか,あるいは食べていけるかを一生,創造していくのが生きていくってことでしょう。

法律があるせいだと思うが,建築学科の研究室には淘汰が無い。分野が固定されている。だけど,本当のイノベーションはそれで大学にもとめられるのか,あるいは新しい学術的深化が起こりえるのか,職業専門学校とどうやってすみわけるのか,っていうのは本当に自問しなくちゃいけないんじゃないでしょうか。


なんか,社会が硬直化しているせいで,利権の中にどうやって組み込めるかとか,こうすると一生食べていけるツールみたいなものを学生さんが大学に求めていたりするのは,おかしいし,そんなものは無いんだということをわかってほしい。家庭の教育とか日本の文化の影響も大きいと思うけれども。

もう,20年,30年前の日本と同じになることなんて,2度と無いわけで,今後の未知なる領域にどうやって踏み込んでいくか,ということを学生自身が考えなくてはいけなくて,それのよりどころが理論的思考でしょう。
未踏の未来に対して,過去30年,40年うまくやってこれた人の意見を素直に聞いたって,うまくいくとは限らないじゃないか。


というわけで,大学における建築研究,建築教育とは何か,というのは結構ホットトピックです。私の中で。

2/21/2010

Full CG

ここにでてくる建物,全部わかりますか?
http://vimeo.com/7809605

フルCG,ここでも作者の力量が出てきますね。

2/20/2010

後方互換

私はMacやWindowsの2つのOSをつかっていたが,Macは新しい技術のために過去を一気に切り捨てる。きっちりはやらない。一方,Windowsは,基本的にがんばって互換性をキープしている。私はビジネスを考える上でもWindowsは正しいアプローチをとっていると思うし,また,文化的な,という意味でもWindowsのアプローチは正しいと思う。

文化の成熟度ということを考えると,技術の後方互換性は基本的に確保しておくべきだと私は思う。理由は,代替技術は,結局代替であって,同じ手段,手法によって得られる成果物(芸術,工芸,機械,その他さまざまなもの)とは異なるからだ。
進化したから,過去にしがみつくのはあほだというのは,言うのもやるのも簡単だけど,それによる失われた機会の大きさへの想像力の欠如だと思う。

建築物や遺跡の保存でもそんな話,よくありますね。

大学の先生でも,過去を切り捨ててという人はそれなりにいるんですが,そういうことを言っている人って
・・・。ま,関わらなければよいだけなんですが,それなりの立場になっちゃうと困ることもあります。

落ち着きました。






さて,今日から,東海支部です。今回は名大で行うのですが,すでにT田先生が獅子奮迅のご活躍で,あまり貢献ができていません。
東海支部の発表では,高炉スラグ微粉末を用いたセメント硬化体の分離圧曲線が発表されます。高炉スラグを用いたセメントがひび割れしやすいということを証明することに,それなりに近づきました。

卒論・修論の発表が終わりました。学生さんの最後の猛追はなかなかのものでした。ご苦労さまでした。特にH君は卒論3週間前に,最終実験がうまくいかず,同じ実験の別のデータから卒論を書くことになり,本人が一番焦っていましたが,それでも,セメント硬化体の体積弾性率の湿度依存性に関するすばらしい成果をとりまとめました。少なくともSetzer先生も,Wittmann先生も,岡島先生も取得していないので,おそらく世界初のデータではないかと思います。
Iさんの方も,12月の寒い中の怒濤の実験が身を結び,これまた,爆裂発生メカニズムについて,興味深い結果がとりまとめられました。これらは,材料学会の東海支部で発表される予定です。

修論の次の日から,金沢にゼミ旅行にいきました。のどぐろは大変うまかったです。酒もうまかったし。食べてばっかりでした。
そういえば,21世紀美術館に行きました。雨漏りがあるとの噂がありましたが,まったくの嘘でした。ちゃんとしていました。建築自体というよりは,建築と中の展示が一体となっている点が評価されているんでしょうね。安藤忠雄の地中美術館や,磯崎新の奈義美術館に通づるのものがあります。
夜の兼六園のライトアップは,雪が降っていたこともあり,幻想的で大変すばらしかったです。しかも,夜のライトアップの時には入場料が無しです。粋なことをするものです。
大変なみぞれ,というか雪の状態で路面は最悪でしたが,その中でハイヒールで突き抜けていく女性を多数お見かけし,これは,美と評価してよいのか悩みました。
残念ながら,旅行の二日目はCOEの会議で早めに帰らねばならず,多くの見所を見逃したようでした。

年度末ということで,報告書関係が山のようにありまして,当分の間,テンションが低そうですが,理由はそういったことにありますのでご了承ください。

2/07/2010

デジカメ

デジカメですが、夜間の性能が良いのでしばらくFujiの

Finepix 200EXRを、携帯・利用していたのですが、その座を渡すことになりそうです。


Canonは、ビビッドな配色で好き嫌いの分かれるところですが、オランダにいた時に友人がPowerShotを使っていた時いらい、使ってみたいと思っていたカメラです。結局F値が大きかったので、当時、帰国してからOlymusを買ってしまったのですが。


こちらのデジカメは、やや大きいようにも思いますが、なにしろ、画像エンジンがデジタル一眼と同じものになっており、ややトリッキーではあるが、マクロモードを使いこなせばボケのある写真も作れることが確認できたので、これにしようかと。
出てから1年以上たっていても、人気が落ちず、ケチがほとんど無いというのも良いかもしれません。

実際に購入して利用してからレポートします。


2/06/2010

研究以外


最近、ますますいろいろ多くのプロジェクトにかかわるようになってきて、時間のマネジメントが厳しくなってきた。クオリティをコントロールしたいとは思うのですが、やはり粗密が出てくるし、レポートなり、論文なりもやはり、ちょっと密度が低いものがあるように思い、反省しています。

一方、30代の間に研究領域を拡大しておかないと、あとでつまってしまうということもあって、基礎的な教科書を読むようなこともしなくては、と思うものの、ちょっとしか実行できていない。

そんな中で、最近、頭の別の部分を使おうとおもってやったことは、

1)子供の段ボールハウスを造る。Dellのパソコン購入時の段ボールが残っていたので、子供用に段ボールハウスをつくってみた。結構、剛性を持たせるには考えることも必要。妻に聞いたら、いまは、段ボールハウスもうっているものがあるそうだ。

2)アバターをみる。名古屋にもアイマックスがあるので、そこまでいってみてみた。キャメロン監督は結局、CGオタクなんだろう、と思った。前回もタイタニックの売りってCGじゃなかったでしたっけ。でも、シナリオはヒーローだいすき型アメリカ映画で素直に面白かった。よくよく考えると、ダンスウィズウルブスに似ているんと思うんだけど、調べたら、ネットでは一般的な解釈のようだ。そりゃそうか。
でも、3Dっていうのはすごい。映画館に足を運ぶ価値がある。特にアイマックスだとスクリーンが大きいので、視野よりも大きく、飲み込まれる感じがある。体験を売るという劇場型に戻ってきた観がある。

映画館から出てきて、現実が色あせてみて、鬱になる人がいるようですが、なんとなくわかる気がする。
フルCGというのは、本当にもう空想の世界だ。アニメと一緒。思ったことが表現できるので、何をおもっているかが、本当に問われる。世界観とは何か、というのをどこまでディテールで示すか、というのがためされるようになっているのは、本当に新しい芸術分野だ。
CGで人に世界観を伝えようとして、世界をつくるって、建築の設計どころじゃないでしょう。本当に。これは面白いことができたんだ、と思った。

3)This is itを見た。私は小学生のころからのファンなんだけど、やっと見た。なんというか、上の映画と同じなんだけど、思いを形にするのはさまざまな表現があれど、本当に努力の結晶でしかないのだな、と。これだけの努力をしたものを、最後の形にできなかったのは、さぞや無念だろうし、最後の形を見てみたかった。